レモネのきみ

きみ(IF)の話を延々とする、全部嘘

バラ、パフューム、ケイキの女

この小さなワインバーを経営して六年になる。それなりに地元の客がつくようになった。一人でふらりとやってくる客が多い。リピート率はそこそこ。


カウンターには女が座っている。女は常連だ。毎月第二土曜日に女はこの店を訪れる。もう四年くらいの付き合いになるだろう。女はいつも、確かにこの洒落たワインバーに滞在するのにはふさわしいだろうが、外を歩くには派手すぎるドレスを着てカウンターに座る。耳からはじゃらじゃらとパールの飾りがぶら下がっている。女は大抵煙草を吸っている。こちらで用意した灰皿ではなく、几帳面に自分の携帯灰皿に灰を落とす。

 

正直言って、この女の相手をするのは最初苦手だった。今はほとんど慣れてしまって、女が何を言ってもにこやかに相づちを打つだけにしている。女は今日も赤ワインを一杯空にすると、古めかしく一度目では火を出すことができないようなライターで煙草に火を付け、勿体をつけて話し始める。店主の私以外女の話を聞く者はいない。女はいつも同じ話しかしない。

 

「バラを買ったわ。ピンクと淡い紫色のバラ。植物には興味がないんだけれど、彼女が言うのよ、私の部屋は殺風景だから時々は花を飾ったほうがいいんですって。それから、部屋を片付けなさいって怒られてしまった。ビデオ通話でね、全部彼女にはお見通しなの」
「二杯目は何かご希望がありますか?」
「ええ、赤の……あれがいいわ、この前飲んだ少し酸っぱいやつ」
「かしこまりました」
この前飲んだ少し酸っぱいやつ、なんてものは存在しなかった。ここ一年にこの女が飲んだワインの銘柄はすべて記憶している。ただ、私は指摘することなく、女が好みそうな甘口の赤ワインを吟味する。

 

「彼女と出会ったのはね、東北沢駅だった。あんなところで彼女とすれ違うなんて夢にも思ってなかったの。彼女ってほら、あの映画の撮影現場に参加したことで一気にメディア露出が増えたでしょう? でも私、それよりずっと前から彼女のことを知っていたの。インテリアコーディネーターとして働いていた頃の彼女の仕事、どんな小さな雑誌に載ったやつも取り寄せてスクラップにしていたのよ。でもあの映画のオーディオコメンタリーで彼女の顔を知ってびっくりしたの。なんて美しい人なんだろうと思った。こんな美しい人が私の好きな部屋を作っていたんだと思って興奮したわ。そう……それでね、彼女はまた映画の仕事に呼ばれて、日本にやってきたの。都内と那須塩原の別荘地を行ったり来たりしていたらしいわ。すれ違ったのは本当に偶然。私、考えるより先に体が動いてた。彼女に話しかけたの、あなたはエミーリエ・ヘンシュさんじゃありませんかって。呼び止められて彼女は一瞬すごく嫌そうな顔をしていた。でもすぐに営業スマイルみたいなぎこちない笑顔を浮かべて、そうですけど何か? って応えてくれたの。私はこのチャンスを逃すわけにはいかなかった。憧れの人だけれど、芸能人なんかと違って何かの機会に会えるような人じゃないから。だから私、あなたの仕事が本当に好きなんです、ずっと憧れていたんですってなりふり構わず熱弁したの。それが高じてあなたのことを好きになってしまった、とまで言ったかもしれないわ。その時彼女は五十歳だった。私は二十七くらいだったかしら」
「灰がこぼれてます。拭きますから、ちょっと腕を上げてください」
「あらいやだ。ありがとう。それで、それでね……。そうね。でも結局、彼女との同棲生活は長くは続かなかった。仕事の関係で、彼女はデュッセルドルフに戻らなければいけなくなって……私もついて行きたかったけれど、彼女が戻るって約束してくれたから、今もこうして待っているの」
「グラスが空ですね。何か出しましょうか」
シャルドネがいいわ。あとオリーブも」

 

「彼女が日本を発つ時、私、本当に取り乱してしまった。ずっと泣いて彼女を困らせたわ。でもね、彼女がサプライズでプレゼントをくれたの。中を開けたらそこには見覚えのある香水瓶が入っていた。彼女は何種類も香水を持っていて、気分によって使い分けているんだけど、その中でも一番彼女らしい香水を私に贈ってくれたのよ。それを選んだ理由はね、ふふ、彼女、私のことをよくよく考えてくれたのね。私に一番似合わない香りを選んでくれたんですって。私が付けたら自分と馴染まない香り。つまり、自分の香りじゃない他人の香り、彼女の香りってこと。それを付けていれば私はいつでも他人としての彼女を感じられる。すばらしいアイディアだと思わない? ブルガリのマン・イン・ブラック。重くて煙たい、彼女の香りだわ」
「素敵な話ですね」
「ありがとう。そうなの、彼女って本当に素敵なの。ねえ見て、これが彼女と最後に並んで撮った写真。私ったら、彼女の肩に顔を乗せて本当に幸せそう。彼女、美人でしょう」

 

女が「ねえ見て」と言いながらスマートフォンのアルバムを開く動作をするのはだいたい三ヶ月に一回で、今日はその日だったようだ。ただ、女は「見て」と言いながら写真が映っているらしい画面をカウンターのこちら側に向けたことは一度もない。私は女が言う「彼女」のことを、女の口から繰り返される話の中でしか知らない。

 

「それで、私に香水瓶を持たせて、大きなスーツケースを引いて、彼女は行ってしまった。去り際にすぐ戻るわ、なんて言ってたわ。すぐだなんて……すぐではなかったの。実際、私はまだ彼女と会えていないのよ。週に一度の通話だけ。彼女が恋しい。でも、もうすぐ彼女の仕事が落ち着くはずなの。そうしたらこっちに戻ってきてくれるって。それまで、彼女は私に口酸っぱく言うの、部屋を掃除しておきなさいとか、ちゃんと料理をして肉と野菜を食べなさいとか、身だしなみを整えなさいとか。私、彼女に出会うまで生活にずいぶん無頓着だったから、かなり鍛えられたのよ」
「今日のお召し物もお似合いです」
「そう? 彼女が、私には紫が似合うって言うから、相談しながらこれを買ったの。褒めてもらえて嬉しいわ」
今日女が着ているドレスは光沢のある深いグリーンだった。紫ではない。しかし、四年間同じ話を繰り返しているわりには、女の身だしなみは派手すぎることを除けば細部まで整えられていて、ドレスも毎回違うものを着て来店していた。

 

「彼女にバラを買ったら? って言われて、最初は赤を買おうと思ったの。真っ赤なバラ。情熱的だしロマンチックよね。でもなんだか恥ずかしくて……彼女が実物を見るわけでもないのに、彼女への愛を証明するようなものを部屋に飾るって思っただけで、気恥ずかしくなってしまったの。変な話だけど。正直、彼女の名前を呼ぶことだって、今もすごく恥ずかしいのよ。彼女を心から愛しているの。名前を呼ぶことは愛の証明だわ。エミーリエ。早く彼女に会いたい」
「何か飲まれますか」
「ううん、今日はもうやめておく。この前みたいにお店の前からタクシーに乗せられるのはごめんだし」
女をタクシーに乗せたことは一度もない。

 

女はカードで会計を済ませると、小さなハンドバッグを掴んで席を立った。そして逡巡するような素振りを見せて、私に問いかける。
「ねえ、私この店に何回来たかしら」
「すみません、正確な回数はわかりかねます。でもいつも足を運んでいただいてありがとうございます」
「そう。あのね、きっと今日で最後になると思うわ。これで嘘は全部終わり。刑期が終わったの。この街からも離れるわ。ワイン、とても美味しかった。今までありがとう」
少し寂しそうな微笑を浮かべて私を見据えると、女は踵を返し店を出ていった。女は一年前も、二年前も、三年前もあの表情で同じ台詞を私にぶつけ、店を後にしている。今回で四度目だった。

 

客が全員帰ったタイミングで、いつもより一時間早かったが、私は店じまいをした。今日は確認しなければいけないことがある。私はカウンターにノートパソコンを広げ、インターネットバンキングの預金額を確認した。今年も裁判所から同じ金額の振込があった。

 

私は裁判所からの入金のあと、毎年なんとなく恒例にしてしまっている行為を今年もすることにした。パソコンの検索画面で、「エミーリエ・ヘンシュ」という名前を入力する。当然、何も一致する情報はなく、真っ白なページが表示されるだけだった。女は来月の第二土曜日もこの店に来て、彼女の話をするのだろう。