レモネのきみ

きみ(IF)の話を延々とする、全部嘘

本当のおかあさんはどこにもいない

私は年上の女性に好かれる。自分で言うのも何だが、女っ気も男っ気もなく、害を及ぼさない純朴少年らしいところが、彼女らの警戒心を解くのだろう。私も彼女らが好きだ。大学の助教授、公園で知り合ったバツイチ、接骨院のバイト、エトセトラ。

 

彼女らとの食事や、美術展の帰りの喫茶店で、私は毎回危うい幸福を感じる。核心から目を背けて、よい心地になっている。私たちは友人であるけれども、その好意は違うものになり得ないかと期待をしてしまうのだ。

 


お決まりの言葉で私は失意のどん底に落とされる。やっぱり、と毎回失望する。彼女らに失望するのではなく、同じ失敗を繰り返す自分に拍子抜けする。


彼女らには恋人ができたり、結婚の時期が来る。友人である私に報告してくれる。光栄なことだと、喜ばしいことだと喜ぶ反面、身体の芯はぶるぶると凍るように恐怖する。また私は勘違いをした。どうして同じ間違いをしてしまうのだろう。

 

 


このひとは私のおかあさんではない。おかあさんにはなってくれないのだ。その包容力で、私より長い人生で、それでも、私を産んでも育ててもくれないのだ。私だけのおかあさんがほしい。私を慈しんで、抱きしめて頬擦りをしてくれ、できることならその胎から私を産みなおしてくれないかと、友人のふりをしながら心の奥底で依存している。


もちろんそんなふざけた願望は易々と打ち砕かれて、彼女らは彼女らの幸せへと、自分の力で進んでゆく。私だけがまた、他の誰かならいつか、私の母になってくれるのではないかと、他人に委ねる幸せを嗅ぎつけようと無様に探し回るのだ。

 

おかしいとわかっているけれど、一番好きな人が自分のおかあさんじゃないなんて、不幸だと思う。