レモネのきみ

きみ(IF)の話を延々とする、全部嘘

誰かがぼくの嘘を糾弾してくれやしないかと淡く期待している

たぶんこうやって座ってはいけない椅子に座って何回も読んだ本を開く。何回も読んでいるのに、ぼくは植物と動物を隔てる要素を覚えることができない。なんとなくは理解しているのに、まだ難しいよ。そしてぼくは業務用エレベーターの前から追い出される。

 

鯨やイルカはかわいくて知性があるから、尊重すべき命だから殺してはいけない。じゃあ豚は? 豚だってかわいいだろう。虫を殺していいのはなぜだ? 人間だけ特別にするのはどうしてなの。植物を平気で食べているのは? 植物を摘み取ることも殺生だろう。

 

神さまなら知っているのだろうと思う。ぼくはまた隠し事をしている。人間のふりをさせている。だってそのほうが面白いんだもの。誰かが気付いてくれないだろうかと、ぼくの嘘を糾弾してくれやしないかと淡く期待している。同時に、指摘されたときの心臓が裏返るような苦しみを避けたいと思っている。

 

キャリーケースの中に隠れていれば、ぼくの部屋に食事が運ばれたとき、だまくらかせるかもしれない。三センチだけ開けたジッパーの隙間から、ぼくは息を殺してすべてを見る。きみは白いベッドに腰掛けて静かに待っている。楽しくて仕方がないんだよ。自分がどこまで面白いことをできるのか確かめたい。もう息が止まりそうだ。

 

ノックの音が聞こえる。ぼくの身体全体にその振動が広がる。ノック、ノック、ぼくのかくれんぼは終わりみたいだ。びっくりした? とぼくは訊ねる。夕食は冷めているが味は悪くない。きみは気に入った副菜について、それがどれだけおいしいかを語り始める。ミドリムシを知っている? あれは植物であり動物なんだよ。緑であるところなんかも、きみみたいだね。つまり、どっちでもいいってことだよ。

繰り返し悪夢を見るんだ、夢の中では誰も助けてはくれない

ピンク色のアイスクリームを食べたらきっとすごくすごく元気になるよ。ああでも、減量中なんだった。こんなに気分がいいのに、手足は痺れて立ち上がるたびひどいめまいに襲われる。何が悪かったんだろう。

 

きいろい封筒、これはぼくが勇気を出した結果だ。なんだか本当に気分がいいんだ。不安がないし、大切なことはいくつか忘れた気がする。部屋は片付いていて、こまめにシーツは交換され、やりたいことをやっている。やらなければいけないことも。

 

初めからこうすればよかったのかもしれない。

 

繰り返し悪夢を見るんだ。夢の中では誰も助けてはくれない。ぼくの都合のいい妄想なんだ。起きたらそれが手の中にあればいいのに、そうだったらいいのに、そうはならないんだよ。早くここにおいでよ。ここに、ここにだよ。ぼくばっかり。

 

スマートフォンが持ち込み可能でよかった。ここは三年前に入った病棟とはまるで違って明るい。それに個室を割り振られている。費用のことはあまり考えていない。ぼくは大丈夫なのに、どうしてみんなぼくをここへ置きたがるんだろう。ここは四階だ。もちろん窓は開かない。ぼくは毎朝化粧をする。朝の血圧測定が始まる頃には、シャツとジーンズに着替えて扉が開くのを待っている。

 

きみはここを気に入ってはくれないみたいだ。ごめん、ごめん、と何度も呟くきみの言葉を聞いているうちに、謝っているのがきみなのかぼくなのかわからなくなってしまった。きみが謝る必要なんてこれっぽっちもないんだよ。ぼくは今いい気分なんだ。何もかもうまくいっているんだよ。ここにおいでよ。

生活を投げ出そうだなんて考えたことは一度もないよ

ぼくはこんなにうまく生活できているのに、どうしてみんなわかってくれないんだろう。主治医は薬の処方を増やした。そのせいでぼくは一日中眠くなってしまった。雨が降っている。タイヤが水溜りに潜っていく音が聞こえる。

 

手のひらが裂けてしまったので、しばらく料理ができない。傘をさしてコンビニへ行く。きみはとぼとぼと後をついてくる。プリンを手にとって、逡巡してから棚に戻す。今は筋トレを頑張っているところなんだった。もっとも、足を使うような運動は禁止されているから、ほとんどやっていないのだけど。

 

どんな気分? ぼくは今晴れ渡っているよ。あの夜からずっと気分がいいんだ。満足しているし、期待していないし、誰にも裏切られていない。河嶋の家からは特に連絡はないし、深入りしないでくれているのはありがたかった。深夜の診療代、ぼくはびた一文出していないのだけど、それもどうでもよかった。ぼくはいつだって今が一番いいよ。思い通りにいったんだもの。やりたいことができている。

 

買い物は苦手だ。何を食べたいのか、何を買ったらいいのかわからない。ぼくは三十分かけてチキンのサラダとパイナップルのパックを選び、店を出た。きみは少し安心しているように見えた。そうだよ、ぼくは生活を投げ出そうだなんて考えたことは一度もないよ。

 

今日は香水を胸につけた。香りに抱かれているような心地だ。深くて重い煙草の匂いがする。ぼくはお祈りを忘れていない。生きることは祈ることと同義で、ぼくは供物を捧げてお願いをする。お願いしたんだ、したんだよ。だからそれは叶えられるはずなんだ。